群馬県東吾妻町、矢倉鳥頭神社と神代杉 2023/09/27





20230927群馬県東吾妻町、矢倉鳥頭神社と神代杉

【鳥頭神社由緒】

創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一社で建久年中(1190)の建立と伝えられている。古末武将、郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。   

延文3年(1351)京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母・子持御前の御子 とっき東宮を祭った神と記されている。

叔父藤原成次は元上野国目代で、この地に住居し中世は吾妻荘西条岩下村と称した。   

戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578)10月斉藤氏滅亡後、同9年海野幸光同輝幸は信玄の吾妻領の郡代となり、天正6年(1578)海野長門の守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難により現存しない。

天正10年(1582)真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同18年8月真田信幸沼田入部に際し三貫五百文の寄進を受けた。

沼田真氏改易の後、貞享4年(1683)検地には境内一反五畝余、森一反とあり、元禄7年(1694)11月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。

宝暦週11年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)9月完成した。

なお宝暦13年(1763)まで正一位正一位鳥頭大明神と称した。   

明治10年7月相殿二座を合祀、同40年8月境内末社等を合祀した


以下ChatGPT先生に分かりやすく直していただきました

【鳥頭神社の歴史と由緒について述べます】

この神社はいつ建てられたのかは正確に分かりませんが、伝承によれば1190年ごろに建てられたと言われています。この神社は、昔から地元の武士や町の人々にとても信仰されており、1321年には岩櫃城の主である吾妻太郎行盛が神社を修理したと伝えられています。

「神道集」という本は、1351年に京都の安居院で編集されました。この本には、特別な神が神社で祭られていることが書かれており、その神は父が加若和利、母が子持御前、そしてとっき東宮という名前の神でした。

叔父の藤原成次は、この地に住んでいて、中世には吾妻荘の一部である西条岩下村と呼ばれていました。彼は元上野国の代表的な人物でした。

戦国時代の末期になると、この神社は岩櫃城の主である斉藤氏に保護されていました。しかし、1578年に斉藤氏が滅亡すると、海野幸光と輝幸は信玄の吾妻地域を代表する役割を果たしました。その中で、海野長門の守である幸光は武田勝頼に忠誠を示すために鰐口を神社に奉納しましたが、後に盗まれてしまい、現在は存在しません。

1582年に、真田昌幸から8貫7百文の寄進を受け、社殿を修復しまし、1582年から18年にかけて、真田信幸が沼田入部に際して3貫5百文の寄進を行いました。

沼田真氏が失脚した後、1683年に境内の土地を計測し、1694年に京都卜部兼連から正一位鳥頭大明神の称号を授かりました。

1761年に本社の建て替えが始まり、1764年に完成しました。

1763年まで神社は「正一位鳥頭大明神」と呼ばれていました。

明治10年に相殿2つを統合し、明治40年に境内の末社なども合祀しました。


【神代杉由緒】

鳥頭神社にある神代杉(親子杉とも言う)は、その昔大和武尊御東征のみぎり、お手植えされたと言い伝えられ、以来幾百年鬱蒼たる神域を近隣に誇っていたが、寛保2年(1742年)草津への旅人が一夜をこの大杉の中にて火を焚き、その時失火により神代杉は半枯の状態になった。

その後、天明3年(1783年)浅間山の大噴火による熱泥流により再びこの神代杉は厄火に包まれたが、この時、龍徳寺住職円心和尚は消失の危機を憂慮し、この神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中、危険を顧みず10メートルの高所より切り倒したために現在も往時の面影を残している。

この神代杉は現在周囲9.7メートル余りで、地元の氏子たちが代々修復を重ねて今にその姿を伝えている。

また、虚内にある杉は約200年前に何度か植栽に挑んだが何れも枯れ死したために、氏子たちが笹原台地の黒土を馬にて運び混土して、杉苗も大きいものを選び切り株より大空に突出するように植えるなど、先人たちの大変な努力により活着したと言われている。

以来、その姿から親子杉とも呼ばれ、神代杉の名声を世間に広め、今なお多くの参拝者が訪れ厚い信仰を得ている。

また、本殿左奥には神武天皇遥拝所と言い伝えられている場所がある。明治4年太政官布告により設置をすすめられる。


以下ChatGPT先生に分かりやすく直していただきました

【神代杉の歴史について説明します】

鳥頭神社にある神代杉(または親子杉とも呼ばれます)は、古代の大和武尊御東征の際に植えられたという伝説があります。それ以来、何百年もの間、この大きな杉の木は神聖な場所として地域に誇られてきました。しかし、1742年には草津への旅行者がこの杉の周りで火を焚いて過ごし、失火が起こり、神代杉は半分枯れた状態になりました。

さらに、1783年には浅間山の大噴火による熱泥流がこの神代杉を再び襲い、杉の周りに火が回りました。しかし、この危機的な状況で、龍徳寺の住職である円心和尚が神代杉を後世に残すために、危険を冒して10メートルの高さから切り倒しました。そのおかげで、今でも神代杉のかつての姿を見ることができます。

この神代杉は現在、周囲が約9.7メートルあり、地元の信者たちが代々修復作業を行って、その姿を保存しています。  

さらに、虚内にある杉は約200年前に何度も植えられた試みがありましたが、どれも杉が枯れてしまいました。その後、地元の信者たちは笹原台地から黒土を馬で運んで混ぜ、また、大きな杉の苗木を選んで、切り株から突き出るように植えなおすなど、先祖たちが大変努力して、最終的に杉が生き続けることに成功しました。

以来、その姿から親子杉とも呼ばれ、神代杉の名声を世間に広め、今なお多くの参拝者が訪れ厚い信仰を得ている。

また、神社の中には神武天皇を遥拝するための場所があり、明治4年に政府から設置されるように指示が出されました。






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